映像の伝えるもの2

『ルワンダの涙』
1994年にルワンダで起こった虐殺の事実を、生存者の証言を元に映像化された作品です。
ボランティア教師の白人青年の視点から描いています。
原題は『SHOTTING DOGS』。映画の中にこの言葉にも意味が隠されています。

ツチ族とフツ族という2つの民族が対立するルワンダ。フツ族出身の大統領が乗る飛行機が撃墜されたことをきっかけに、フツ族によるツチ族への虐殺が始まります。
その数、100日あまりで100万人。
数字でみたら、なんて実感のわかないことでしょう。
映像の中で横たわる被害者の姿。その一部であろう姿を目にすることで、事の重大さの一片をやっと感じることができるのでしょう。

隣近所に住んでいた人を自分と違う民族であるという理由で殺す。
人間が人間でなくなるとは、いったいどういうことなのでしょうか。
フツ族にとってツチ族の人はもはや人間ではなく、何に見えたのでしょう。
鉈を隣人に迷いもなくふるう、その人たちはいったい人間といえるのでしょうか。

そもそも何がルワンダに住むアフリカ人を2つの民族に分けたのでしょうか?
民族とはなんでしょうか?
虐殺の加害者であるツチ族の青年を殺戮に駆り立てたものは、「ツチ族は昔のようにフツ族を支配したいと思っている」という自分の身が脅かされる恐怖。
今までフツ族に支配されていた恐怖はツチ族の人たちから反抗の心を奪い、なすすべもなく助けを求めてさまよい、殺されていきます。

人種とはなんでしょうか?
白人ジャーナリストが言います。
「ボスニアで白人が犠牲になったときは、これが母親だったらと思い涙が出た。ここでは殺されるのはただのアフリカ人」
なんて人でなしなんだろう…
と思えない自分がいます。
私はこの言葉に共感できてしまうから。同じ人間なのに、白人が犠牲になった、黒人が犠牲になった、アジア人が犠牲になった、日本人が犠牲になった、すべての言葉の受け取り方に温度差がないとはいえません。

映画の舞台は虐殺の現場のひとつである、公立技術専門学校です。国連軍の駐留するその場所は2500人あまりの避難民をかかえる場所となります。
白人青年は撤退する国連軍とともに2500人のルワンダ人を見捨てます。
自分達に助けを求め、かくまった人たち。自分達が去れば、殺戮者に瞬く間に殺される運命の人たち。
国連軍に、その青年に、どんな思いを抱くでしょう?

自分もその場にいたら同じく見捨てしまうかもしれません。
死ぬためにボランティアに来たのではないのです。
一生涯その行為に罪悪感を持ち、人々の顔を忘れることができないと、苦しむことがわかっていながら、それでも自分の命を惜しんでしまうでしょう。

映画では実在の人物を元に、彼らとともに残り、最善を尽くした人も描かれています。
そのようにありたい、と望むけれど、その決断をできる自信はありません。

人道とはなんでしょう?
国連がルワンダで行われている事実を「大量虐殺」であると認めるまで時間がかかっていたのはなぜ?
そうであるとなれば、もっと早い介入ができたでしょうに。
「平和維持」ではなく、「平和監視」であるから介入できない。命令が出なければ動けない。
鉈でモノのように殺される、辱められて殺される前に、人間としての死を願う彼らの願いもかなえられない。

当時の人道的な命令によってなされたことは、ヨーロッパ人だけがその場から救出されたこと、そして殺戮者にとって都合のいいように被害者を一箇所に集めたこと。助かるのでは、という希望をちらつかせたあげく、見捨てられ殺されていく絶望感を認識させたこと。
人道とはなんでしょう?「人間である以上誰でも守るべき道」とはなんでしょう?
憤り、無力感、恐怖、絶望、希望、焦燥…などさまざまな感情を抱くでしょう。

何かを考えるでしょう。
せめて感じなければ。考えなければ。
人間であることを無視されて殺されたルワンダ人の恐怖や絶望、それを目の当たりにして逃げ延びた生存者達の恐怖と苦労、その記憶を引き継いでいく子孫達…
殺戮者である加害者のその後の思い、彼らの記憶を引き継いでいく加害者側の子孫の思い…
どれをとってもわかることは到底難しい。

しかし、この事実を知ることもなく、何かを感じることも、考えることもしなければ、いつかどこかで、同じ悲劇がおこるのではないでしょうか。

コメント