夢に向かうことで日々の暮らしに張りがでる。
夢に向かう道は辛いときもある。
夢に向かうために抑制している自由への欲求が、コントロール不能になることもある。
夢に向かって羽ばたいていると思いきや、夢という油に満ちた池にはまっているのか?と自問自答することもある。
捨ててしまえば、忘れてしまえば、すっきりするのに。
夢に向かうためのお金と時間がフリーになったら、いくつもいくつも生まれている楽しいことができるのだ。
夢に向かう道で時々息抜きするちいさな自由では息抜きにならなくなっている今日この頃。
…ひじょ~に行き詰っております。これまでにない行き詰まり。
ああ、それでも捨てられない、忘れられない。
夢ってモノはなんなんだ。
なんて厄介な代物だ。
それは純粋な想いでつくられているかと思いきや、見つめたくないところをみれば、見栄やこだわり、他人からの影響が表面を玉虫色に覆ってる。
本当にこれは私の夢なのか?方向転換する勇気がなくてやめられないだけなんじゃないか?
夢がなけりゃ、こんな生活してられないさ、としがみついてる心の鎧なんじゃないのか?
こんな吐き気を催すほど思い悩んで進むものが夢なんだろうか。
この縛り付けられている感は何?
何がまとわりついて締め付けているのか?
ああ、でも捨てられない、忘れられない。
進むことをやめられない。
もう少し続けるか。
今年いっぱい続けるか。
今年度いっぱいは続けるか。
みみっちく、せこく、自由を謳歌したい自分と交渉する夢に向かいたい自分。
夢に進むきっかけになった、感情が忘れられない。
どこから来たのか、噴き出した感情の根っこを見たい。
不純なものに囲まれてくすんでも、その芯にその感情があるのを知っている。
その感情は今も分析不可能で、だからこそ多分
その感情は純粋なものではなかろうか。
いつも自分の中でせめぎあう二人の自分。
かの人は“自由”について、そんなものはそうそうなくて、夢と自由の間でせめぎあう考えが自由、“自由”意思なのでは?と言った。
というか、私はその人の言葉をこう理解したのだが。
自由意志だってやはり自由ではないのだ。
というか、不自由があってこそ、自由はその価値も意義もあるんだろう。
まったくの自由は、それを手に入れた時点で自由ではなくなる。
まったくの自由は存在しないのだろう。
夢というのは自由を楽しむための要素に過ぎないのか?
または達成感を得るための?
自由の“快”も達成する“快”も脳の喜び。
所詮、脳を喜ばせるために夢を抱きそれに向かうのか。
というか、今考えている私も脳の中で信号が交わされてつくられているに過ぎない。
自由意志という夢をみている、細胞のかたまり。
夢見て夢見て夢見て…
この細胞のかたまりが死なないように。
“快”の刺激を得るのだ。
一つ一つの細胞の意思を感じさえする。
このかたまりを生き続けさせるため。
厄介なことにこのかたまりは、脳の信号でできているのに、変に人格なんてものがあって“何のために生きてるの?”なんて考える。
そんなもの細胞のかたまりの細胞には答えられるわけもなく。
…のため、…のため、…のため
そんなのが目の前にないと人格ってやつは暴走して、ほかの細胞のかたまりのことなどかまわず一蓮托生あの世行き。
“快”を得るにも“不快”があってこそ。
抑圧と解放
快と不快。
夢と自由。
…。
…。
全部一緒。ぜんぶ同じこと。
所詮この細胞のかたまりが死なないようにプログラミングされていることの表現形にすぎない。
愛も夢も希望も絶望も、達成も挫折も向上心も敗北感も…
なんだかなぁ、わけわかんない。
この自分の思考の流れもわかんない。
多分、まだおかしくはなっていないと思うけど。
ちょっと行き詰っているだけ。
なんだかんだといっても、それでも捨てられない、忘れられない。
今年いっぱいは夢に向かおう。



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