はまりの道 出港編その2

連作です。
ここまで読んでくれたあなた、ありがとう。
まだまだ、続くよ。

2001年暮れ。帰国しました。
ボランティア先で「助産師」という仕事にベクトルが向いたので、帰国前から親に頼んで学校の願書を取り寄せて送ってもらい、提出していました。
ピンポイントのhideとの出会い。
普通は深まるだろうさ。

でも、帰国したら、あるショックが待ち受けていて。
「故郷は遠くにありて、想うもの」でしたっけ。
あれは名言です。
遠くにいるからこそ、お互いを思いやれるのでしょう。
現実は私の想う「家族」はどこにもなくなっていました。
あまりのショックに、
受験したにもかかわらず、
「どうして助産師にひかれたのか」すら忘れてしまっていた。

きっと日本を出る前より、おおらかに、柔軟に、たくましくなっていたであろう私は、
帰国して学校の寮に入るまでの4ヶ月あまりで
何もかも忘れてしまった。
ひたすら寮に入るまで、心を保たなければ・・・。
それだけが、頭にありました。
「お前、受からなかったらよかったのに」
父が言いました。
でも、私の心が生き延びるためには受かるしかなかった。


そして一年の寮生活。
実習は大変だったけど、私の心のリハビリでした。
家には帰らない・・帰れなかった。
帰らねば、家族がどう想うか、私の居場所がなくなるのでは、と帰ります。
でも、30分もいられない。
なんとか実家に帰ってやる用事を見つけ、それをしたらあわただしく帰る。いつも気分は不安定で不機嫌。
玄関を出た瞬間から、後悔、恐怖、不安、悲しみ、悔しさ・・・といった負の感情が一気にこみ上げてきて、狂いそうでした。

そしてある日、母に言われました。
「来なくていいよ。
あんたが来ると雰囲気がよけい悪くなる」
卒業まで帰らなかったですね。
メールが来ても同じような負の感情がこみあげてくるような状況でした。

そして、救いを求めた先は・・・「X」
いや、ストレートに向かったのではないです。
オルゴールの曲とか、アロマとか、
助産師の世界には「癒し」の方法があふれています。
それと仲間との他愛無いおしゃべりで少し傷が癒えた頃、
ふと
「あ~、解散コンサートみたいなぁ~」と。

どういう脈絡かは本人もわからない。
だれか分析してくれ、という感じです。
ちょうど、ビデオが発売された頃で。
いそいそと買いに行きました。
そして見る、見る、見る・・・。
いや、大事にせねば、とインターバルはできる限りあけて、ですけど。すり切れちゃうからね。
それまでは負の感情を押さえ込みながら過ごしていたようで、
ビデオ見ながら、号泣。

哀しくて、つらくて、苦しくて・・・・。
血を吐くのでは、と思う勢いでどんどん胸からこみ上げてくるものがあった。
自分で望んだことではあったのです。
家族の心を保つために、自分がクッションになろう。
でも耐え切れず、擦り切れました。
苦しい思いを切り出すこともできないくらい。

苦しさは不機嫌な態度になり、親に言わせてしまいました。
看護婦の私はわかるのです。
親の置かれた状況も、その言葉にある追い詰められたつらさも・・・
でも、娘の私は受け止められない。
親に不幸をのぞまれるのは、拒否されるのは、これほど苦しくつらいのか、と。
誰かに言えれば楽になったのかもしれません。
でも言えない性格でして。
例えば、お腹こわして、治ったあとで、
「大変だったんだよ~」
とは言えても、痛いときには言えない。
余裕がないんですね。自分の中でこなれないと言葉で表現できない。
苦しいときに出るのは涙だけ。
何から話していいかもわからないし。

解散コンサートのビデオはね~。そんなちっちゃな私のバリケードを壊すんですよ。
メンバーの曲、表情、ファンのなりふり構わぬ絶叫が・・・。
「バカか、お前は。こらえるなんて土俵際だけでいいんだよ。泣け、泣いちまえ。全部だしとけ。」
いつも背中を押されます。
押して欲しいと思うとき、無意識に望むとき、いつも背中を押してくれます。
そして見終わったあとには、なぜか救いが。
いつかは、分かり合える日が、
自分の思いを伝えられる日が来るかな。
そう思い、徐々に復活したしだいです。

「BALLAD COLLECTION」
心の傷がたびたび化膿したり、かさぶたがはがれて出血したとき、いつもTOSHIの声が慰めとなっていました。
すっかり重くなってしまった。
ここからは浮かんできます。
続きは 「はまりの道 出港編 その3」
まだ出港編かよ、とは私もおもう。

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