カタチあるもの

今日、わけあって懐かしの出身校へ行ってきました。看護学校と助産学校へ。
寒空の中、ウン年ぶりのそれぞれの駅につくと、いやぁ、感慨深いものがありました。
それぞれの学生時代に濃密な思い出があるものです。
学校までの道すがら、見慣れた光景はもうありませんでした。
すべてが微妙に変わっていました。外装が変わっていたり、他の店にかわっていたり、空き地は高層ビルに、公園は住宅街に・・・。
違うことはわかるけれど、学生時代そこに何があったのかははっきりとは思い出せず・・・微妙な違和感と懐かしさの入り混じった不思議な感覚を抱いて歩いていました。
学校に着くと・・・ひと安心。
良くも悪くも変わっていませんでした。・・・ボロい。


用事を済ませた後に敷地内をぶらぶらしていると、いろんなことが思い出されて、ホロリとしました。
その中には、もうこの世にいない人、いても遠くに住んでいて会えない人、会える距離にいても心の距離が離れてしまった人、今も変わらず会っている人、学生の頃よりも心の距離が近くなっている人・・・さまざまな人が現れました。
学生という共通のカテゴリーにいたからこそ共有できた何かがそこにありました。
自分と彼らの関係は時を経て変わってしまったけれど、この建物から喚起される記憶は時をとることをわすれたように、鮮明で若くて勢いがあって・・・懐かしくて、嬉しくて、せつない。

カタチあるものは少なからず変わっていきます。
きっとひと安心した学校も、大きな変化がないだけで変わっているのでしょう。
まさに諸行無常。
カタチあるものは人も含めすべてが変化せずにはいられない。
時をとどめることはできない。
だからこそ、時をとどめるモノを求めるのでしょうか。

そして、歳をとると涙もろくなるというのは、流れる時のなかで、とどめておきたい記憶が蓄積されるからでしょうか。
何かをきっかけにそれらの記憶が呼びおこされるとき、その時間にけっして戻ることはできない事実の切なさが、その記憶に喚起される想いと一緒になり涙を誘うのでしょうか。

亡くなった人はその時点で時は止まったまま。
けれどそれを記憶の中にとどめる人は変わってしまう。望む望まないに関わらず、その人の記憶も変化してしまう。または薄れてしまう。
だからこそ、亡くなった人が生きていた時をとどめているものを求めるのでしょうか。
何度も何度も思い返し、記憶に新しくそのときのことをとどめ、とどまることのない時の変化に立ち向かおうとするのでしょうか。

思い出したのは、白い骨。
hideの、白い骨。
生き生きと動いていた体が主をなくし、白いかけらになってしまった。
カタチはあるけれど、とてもカタチをとどめていないもの。

あるDVDの骨を海に撒くシーンでいつも泣けてしまいます。
白いかけらがあの魅力的ないきものの変化の果てなのだ・・・そのむごたらしさを目の前に突きつけられるから。

焼かれてしまった。
その顔も、身体も、指も、髪の毛も・・・。
もう笑顔を見られない、いろんな表情を見せる瞳も見られない。泉のように湧き出る音楽を聞くこともできない。ずっと聞いていたいような語りもきけない。
小さい、もろい、白いかけら。

深く知ることもなくいなくなってしまった人を、後から追っていく。
残された記録たち。
それはあるものは染みのついた雑誌だったりする。
そこには、その時点の彼の気持ちが書かれている。
あるものは音質の悪いCDだったりする。
そこには、その当時の彼の想いと奮闘ぶりが刻まれている。

あるいはDVDにされることのないビデオだったりする。
そこにはテープの寿命とともに消えてしまう、瞬間の彼が生き生きと動いている。
何度も何度も焼きつける。時の変化にあらがうように。
カタチあるものはいつかなくなってしまうから。
そのとき、記憶の中に鮮明に残るように、少しでも変化が遅れるように。

たまに記録が残されていることも残酷だと思う時があります。身近で亡くなった人の記録は手元にないのです。
ちょっとした行き違いで捨てられてしまいました。
残されたのは記憶だけ。懸命に思い返していても、徐々に徐々に細部は忘れていき、編集されていきます。
それは悲しいけれど、ありがたいことでもあります。
記録があると、ずっと忘れられない。
現実にはもう存在していないのに、記録の中には存在している。
段々と“存在”の定義さえあいまいになっていく。

いないのに、いる人。会えないのに会える人。話せないのに、声が聞ける人。
残酷だけれど、やはり・・・やっぱりありがたい。
“捨てる”ことが得意な私の捨てられないものは、そんな愛おしい、大切なカタチあるものたち。
“物より思い出”とはどこかのCMのフレーズ。
でも思い出を喚起させる物は、思い出と同等に大事。
とりとめのない言葉達をまたはいてしまった・・・。

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