『 Aunque sea pequeña,
su voluntad será un granito de arena 』
(直訳)たとえ小さくても、あなたの意思は一粒の砂になるでしょう。
“ちり積も”ってことですね。
「granito de arena」は「ささやかな貢献」という名詞になるようですが、大げさな感じなので、そのまま訳すのが好みです。
いま、能登でもボランティアの方々が家財の整理などを手伝ってくれているようです。
私の友人も、一昨日までは断水で困っていたようですが、自分のことよりもより困っているお宅に手伝いに行っているようです。
ちょっと意味合いは違ってくるのか、そうでないのか。
私、レジ袋やめました。Myバッグってヤツです。
すでにされている方、いまさらですんません。
まだの方、このさい一緒にいかがです?
Myバッグはもう2年位前からあったのですよ、家に。
でも、いつもいつも忘れて、そのうちめんどくさくなっていた。
あと、なんだか、気恥ずかしい感じ?がして。あたりまえの(ようになっている)流れに一声言うのが、かな。
だけれどね、薄くなった氷を歩く白熊、自分の体重を支える氷が少なくなって、海の中で氷の上に上がろうとするけれど、つかむ氷つかむ氷、崩れてしまっておぼれかけている白熊。
南極のペンギン、緑の大地のペンギン。雪が解け、捨てられた大量のゴミがむき出しになった大地。巣に戻る際にそこで傷つくペンギン。解けて割れた氷のハザマに落ちて死んでしまったペンギンの子ども。
そのほかもろもろ。
見るとですね、“恥ずかしい”の方向が違うぞ、と改めて思う。
便利だからと、必要でないものをだらだらと使い、ともに住んでいる動物の必要なものを奪い取っていることのほうが比較にならないくらい、はずかしい。
気づかない振りをして、または言い訳をして、同じ習慣を続けていくことのほうがはずかしい。
エコといわれていること、すべてをすべて行うことはできないかもしれないが、できることからやっていくことはできる。
自分がしても、他の人がしていないのでは同じじゃない。と考える人がいるし、それが体のいい言い訳にもなっているけれど、
“一粒の砂”
破壊の一粒になるか、くい止める一粒になるか。
どちらを選ぶのか。
“どちらを選ぶ”
選ぶ、という状況ではないだろうに、それでも“選べる”と思っているのが人間のエゴなのだろうか。
“経済と環境”どちらを選ぶか、とどこかの番組でも言っていましたね。
人が選んでいるその瞬間その瞬間に、選ぶ間もなく苛酷な環境を強いられていく命がある。
“便利”を求める人間はその命と真っ直ぐ向き合うことができるだろうか。
どこかの漫画でこんな話がありました。
蓮・・・だったか、たとえ話。
池があって、そこに一日に2枚ずつ葉が水面を覆っていく。
池全体が覆われたとき、水面下の生物は死んでしまう。
水面の半分が覆われてしまったとき、それでも人間は思っている。
“まだ半分だ”
・・・次の日にはすべてが覆われてしまうのに。



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